今回はスポーツの話と見せかけて、歴史にまつわる言葉の由来のお話です(笑)。

特に野球などで、ペナントレースの終盤(8月末から10月)に首位のチームと2位のチームが直接対決をする時に

“今日から、天王山三連戦です!”とか“今日から、天王山決戦です!!”とか言う言葉を耳にしませんか?

前半戦のオールスター前に首位チームと2位のチームが戦う時にも、“前半戦の天王山です!”なんて事を耳にする事もありますね。

そもそも、この天王山の言葉の由来ってご存知でしたか?

知っとるわ!って方は、スルーして下さい(笑)。知らない方へ、天王山決戦の言葉の由来をプチ歴史講座と共にお伝えしますね♪

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天王山って実在する山です。

はい。結論から言っちゃいました。

天王山って実在する山で、京都府と大阪府の県境に位置します(ん?京都府と大阪府の間でも”県”境で良いのか?)。天王山決戦の天王山の由来もまさにこの山から来ています。





関西(特に京都、大阪)在住の方には、渋滞の名所で馴染み深いですかね?

上のグーグルマップでも分かりますが、名古屋と神戸を結ぶ名神高速道路の天王山トンネル付近の渋滞があまりに苛烈だったので、この区間だけ2ルート4車線化されています。(合流地点で分詰まりになるから一緒じゃないの?ってのは素人考えのようで、しっかりと渋滞緩和の効果はあるみたいですね。)

じゃあ、由来は?

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と明智光秀が雌雄を決した戦いをご存知ですかね?

そうです。“山崎の戦い”です。

本能寺の変で織田信長を討った”明智光秀”と謀反を起こした逆賊・明智光秀を成敗するために立ち上がった”羽柴秀吉”が雌雄を決した戦いというべきですかね。


この山崎の戦いで、羽柴秀吉が布陣したのが、ここ天王山と言われています。

結果はご存知の通り、秀吉の大勝利。その後、

  • 清須会議にて信長亡き後の織田家の実権をほぼ手中にし、
  • 賤ヶ岳の戦いで、秀吉に敵対する旧織田家筆頭家臣の柴田勝家を滅ぼして

天下を手中にしたことから、天下取りの足がかりになったこの天王山の地に由来して、天王山決戦と言う言葉が出来ました。(秀吉は現在のJR大山崎駅付近に布陣し、実際に天王山に布陣したのは、秀吉の弟である羽柴秀長と軍師の黒田官兵衛でした。)

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※天王山・羽柴秀吉布陣跡より、山崎の地一帯を臨む


実際にはこの天王山の地が戦略的な要所だったようで、この天王山を秀吉が押さえた時点で、ほぼ勝敗が決したと唱える学者さんも居られます。



尚、先ほどの名神高速道路の天王山トンネルですが、こんな感じでちゃんと山崎の合戦を意識されています。

11 Tennozan Tunnel

山崎の戦い(天王山決戦)あらかると

以上と言っちゃえばそれまでなんですが、せっかくなので、歴史に全く興味ない方の為に山崎の戦いのあれこれをお伝えしたいと思います。

ぽっかり空いた京の都

ほぼ天下を手中に収めていたこの当時の織田信長は自身が動く事無く、優秀な家臣たちに軍団を持たせて各方面を攻略させていました。

本能寺の変当時の織田家臣団とその役割はおおよそ以下の様な感じでした。

 司令官従軍武将敵対する大名
関東方面滝川一益河尻秀隆北条氏
四国方面軍織田信孝丹羽長秀長宗我部氏
北陸方面柴田勝家前田利家
佐々成政
上杉氏
中国方面羽柴秀吉蜂須賀正勝毛利氏
山陰方面明智光秀細川忠興波多野氏・赤松氏

当の信長は安土で盟友・徳川家康と豪遊中で、その接待役がまさに明智光秀くん(笑)。

その明智光秀は、急に接待役を解任されて、急に秀吉の毛利攻めに加勢しろ!なんて言われた物だからブチ切れて、本能寺の変に至った・・・かどうかは分からないですけど、本能寺の変~山崎の戦いに至るまでの時系列はおおよそ以下の様な感じと言われています。

日付明智光秀羽柴秀吉
5月14日安土(現・滋賀県東近江市)で徳川家康を接待中備中高松城包囲中
15日接待役解任。中国方面軍への加勢の任を受ける
17日頃居城・坂本城(現・滋賀県大津市)へ戻る。
21日頃山陰征伐の最前線・丹波亀山城へ入城
28日・29日連歌会
6月1日亀山城出発
2日本能寺にて信長討伐。
その後、居城・坂本城へ戻る。
3日本能寺の変の一報入手
4日毛利氏と和睦
5日安土城攻略
6日備中の陣を撤退
7日姫路城入城
8日
9日近江(現・滋賀県一帯)平定姫路城出発
10日秀吉急接近の報を受ける
11日尼崎通過
12日富田(現・大阪富田林市)にて、丹羽長秀と合流(富田軍儀)
13日山崎の戦い
14日敗北・逃走時に討ち死に

信長は秀吉が攻略中の備中の陣に合流する予定だったようですが、その数は100人にも満たなかった様です。尚、この行軍には嫡男・信忠も一緒でした。信長は本能寺で夫人・濃姫と共に最期を迎え、信忠は二条城で最期を迎えてしまいます。

徳川家康は、服部半蔵を始めとする伊賀衆の助けを借りて、命からがら故郷・三河へ帰ったといわれています。有名な家康の伊賀越えですね。


尚、明智光秀は上記の時系列に出てくる”連歌会”で、


時は今(ときはいま)
天が下知る(あめがしたしる)
五月哉(さつきかな)


と読んで、天下への決意を示したといわれていますが、”そんなん後付けじゃ!”っていう方も居られるみたいですね。

確かに、そう言われればそうとも取れるし、”そんなん言われんと、分からんがな!”って感じもしますし(笑)。

光秀の誤算

明智光秀には2つの誤算があったと言われています。

  • 秀吉が尋常じゃないスピードで近畿へ戻ってきた事
  • 一説には、北陸の柴田勝家を気にして、秀吉はノーマークだったとも聞きます。

    秀吉の急接近は有名な”中国大返し”ですね。

  • 頼りにしていた武将が加勢してくれなかった事
  • 特に娘を嫁がせた、細川藤考、忠興親子がどっちつかずの姿勢を取って、加勢してくれなかった事が痛手だったようです。

    その他にも、上記の通り、北国の柴田勝家の押さえと近江平定を最優先にした事で、摂津衆と呼ばれる大阪一帯の武将(高山右近など)がこぞって秀吉側に味方したのも大きかったようです。

    諸説ある様ですが、一説には秀吉軍4万、光秀軍2万と言われている程の兵力差だったようです。

まとめとあとがき

今回は、野球などのスポーツでよく聞く”天王山決戦”の言葉の由来についてお伝えしてみました。

  • 天王山は今も実在する山の名前
  • 羽柴秀吉が本能寺の変後の明智光秀との決戦でその地に布陣して、天下統一の足がかりを作った事に由来する

こういう歴史の出来事に由来する言葉って結構ありますよね。

例えば、”三日天下”なる言葉も明智光秀に由来するものです。

本能寺の変から山崎の戦までの僅かな間しか天下を手中に出来なかった事に由来しているようですね。(実際は三日ではないですけど、例えの様です。)


でも、普通に考えると”関ヶ原決戦”とかになっていてもおかしくなかったと思うんですけど、何故、”天王山決戦”になったんでしょうかね?語呂合わせや文字の見栄えなども関係しているのかな?

もしも、”天王山決戦”の由来を初めて本記事で知った方、名神高速道路で京都~大阪間を走る事があれば、天王山トンネルに注意してみて下さい。一応、事故多発地点の様な”いわく付き”スポットではありませんので、ご安心を(笑)。

それでは、今回はこのあたりで失礼します。

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