先日は<意外と知られていない、関が原の戦い>と言う題材で書かせて頂きました。

意外と知らない関が原の戦い。裏切り者は小早川だけじゃねぇぞ!

関が原の戦いについて描写された、
ドラマや映画は数多くありますが、
その後の事に書かれた物はあまり無く、
あっても、サラッと描写された物が多いですよね?

今回はそんな関が原の戦いのその後について
特に大阪の陣との結びつきを中心に中心にお伝えします。




主要人物のその後


重罪を受けた主戦級


・石田三成
・小西行長
・安国寺恵瓊


首謀者の扱いを受けて、処刑された方々です。

安国寺恵瓊は聞きなれない方もいるかと思いますが、
毛利家の外交担当の僧侶です。
毛利輝元を西軍総大将へと担ぎ出すのに
大きく加担したと言われています。

ちなみに、当時の考えとして、
切腹は武士として尊厳のある最期とされていますが、
上記の方々が受けた処刑(斬首)は
武士としての名誉ある死すら許されない
屈辱的な最期とされています。

・宇喜多秀家

西軍・副将ですね。

西軍の敗北が濃厚になると、
「金吾(小早川秀秋)とだけでも刺し違えてくれるわ!」
と乱軍に突入しようとするも、
家臣に止められ戦線を離脱します。

逃走後、薩摩の島津家に身を潜めていましたが、
ついにバレて、徳川家康の元に出向きます。

格(五大老の一人)と最初から反・家康だった事を考えると、
上記の方々と同じ刑になっても不思議ではないですが、
島津家の助命嘆願などもあり、辛うじて、命だけは助かります。

結局は改易(お家取り潰し)の上、
八丈島に流罪(島流しの刑)となります。
今でいうと、無期懲役のような物でしょうか?

当時では、長命の84歳で寿命を終えます。
この時、江戸幕府は既に四代将軍・家綱の時代になっていました。

うまく乗り切った主戦級


・毛利輝元
・上杉景勝


毛利輝元は、西軍の総大将ですね。
上杉景勝は、戦の引き金(会津征伐)になった張本人です。

両家とも、お家取り潰しになってもおかしくないところですが、
領地はかなり取り上げられながらも、お家は存続します。

毛利家は前回の関が原の戦い記事で書かせてもらった通り、
吉川広家と徳川家康の密約が効いたと言う事でしょう。

上杉家は重臣・直江兼続の外交手腕でなんとか、
乗り切ったと言われています。

しかし考えてみると、
直江兼続は徳川家康を挑発した張本人のはずなんですけど、
よく許してもらえましたよね。

実際の所は、徳川家重臣の本多正信の子息を養子に迎え入れて、
「直江の家柄を徳川に差し出します!」との姿勢まで貫いたようですから、
さすがの家康も邪険には出来なかったということでしょうか。

元々、秀吉でさえも、家康でさえも一目置いていたと言われますし、
この辺りが名将と言われる所以なのでしょうかね?

そして、あの方


・小早川秀秋

この人のその後を書かない訳にはいかないですよね。

見事な裏切りで、(笑)、東軍勝利に貢献したこともあり、
たくさんのご褒美を貰いますが、
2年後に原因不明の病で亡くなってしまいます。
享年23歳。

当時の世間では石田三成の呪いとも、
大谷吉継の呪いとも言われていたようです。



14年後への布石


1614年に発生する大阪の陣にていわゆる、
浪人五人衆と呼ばれる方々。

・後藤又兵衛
・真田信繁(幸村)
・毛利勝永
・明石全登
・長宗我部盛親


この五人中の四人までもが関ケ原の戦いで、
自身、もしくは、主家がお家取り潰しにあい、
浪人になった方々です。

後藤又兵衛だけは、東軍の黒田家の家臣でしたが、
主君の長政とウマが合わずに出奔し、
浪人になったと言われています。

真田信繁


父・昌幸と共に信州で徳川秀忠率いる中山道隊と交戦し、
数千の軍勢で3万超えの軍勢を翻弄するも、
本戦での西軍敗北を受けて、上田城を開城。

東軍側についた兄・信幸の助命嘆願もあり、
命だけは助かり、高野山で蟄居となります。

蟄居中に父・昌幸は生涯を閉じますが、
信繁は豊臣秀頼の誘いを受けて、大阪城に入場します。

大坂の陣での活躍は知られている通りです。

長宗我部盛親


この人は西軍として関が原の戦いに参加するも、
途中からは東軍に付きたくて(寝返りたかった)仕方なかった様です。

ですが、五奉行の一人・長束正家の妨害で
家康に接触できなかったと言われています。

関が原の戦い後は、あえなく領地没収・お家取り潰しとなってしまいます。

京都で江戸幕府の監視下に置かれながら
浪人生活を送っていましたが、
徳川と豊臣の戦が不可避となると、
監視をまいて、大阪城に入場します。

大阪夏の陣では大阪方が敗色濃厚となり戦線離脱しますが、
逃亡中に捕獲され、あえなく斬首されてしまいます。

本当にどこまでのツイテいない可愛そうな武将です。

明石全登


宇喜多家の重臣で、関ケ原の戦いに於いては、
西軍武将の中では最も働いた一人と言われる武将です。

関が原の戦いでは、開戦から西軍敗北による敗走まで、
東軍先鋒の福島正則の部隊と激しくやり合ったと言われています。

主家の宇喜多家がお家取り潰しとなった事で浪人の身となり、
黒田家に身を寄せたと言われていますが、
大坂の陣では大阪城に入場し、豊臣方に加勢します。

ちなみに、この方はキリシタンなので、
自害する事は許されておらず、
大坂の陣でも討ち取られたと言う記録が無い事から、
どこかに逃げ潜んだと言われています。

毛利勝永


紛らわしいですが、
この方は安芸の毛利家(輝元)とは一切関係ありません。

関が原の戦いでは、豊前(小倉)の領主である父と共に
西軍の味方に付くことになります。

前哨戦の伏見城の戦いで活躍するも、
本戦では毛利軍(安国寺恵瓊)の指揮下に置かれたこともあり、
活躍の場はありませんでした。

その後、お家は取り潰しされて、
自身は土佐の山内家(山内一豊)に身を寄せていましたが、
大坂の陣では大阪城に入場し、豊臣方に加勢します。

あまり知られていませんが、
この毛利勝永こそが、
大坂の陣で一番活躍した人物とも言われています。


家康の本陣を何度も脅かし、
後藤又兵衛や真田信繁の部隊が壊滅して、
四方を囲まれ孤立した後も、
見事な指揮で大阪城まで退却したと言われています。

その後、豊臣秀頼の切腹の介錯をし、
自らも自害したと言われています。



さらに260年後への布石


これは私の勝手な味付けなのですが、

徳川家康は戦後処理で毛利家も
島津家も取り潰そうと思えば、
取り潰せたと思うんですよ。

毛利家は吉川広家との約束もあったので、
無下に潰すわけには行かなかったのかもしれないですが、
島津家に至っては、特に領地を没収することなく、
ほぼそのままの勢力でお家存続していますからね。

この両家が幕末に於いて
薩長同盟で手を結んで討幕をするのですから、
ここでお家を生かした事が仇になったのかな・・・と、
やや強引な見解をしています。

あとがき


関が原の戦いで破れた西軍の関係者の多くは
改易や処刑にあっているので、
その張本人や家臣が浪人になるのは当然の話で、
大阪の陣に結びつくのも納得ですよね。

特に、後藤又兵衛や真田信繁あたりは
色々なドラマや映画などで描かれてきたので、
ご存知の方も多いかと思いますが、
毛利勝永あたりは意外と知らない方が
多いのではないかと思います。

尚、大阪の陣における浪人五人衆の活躍を描いた
オススメの書籍はこちらです。

城塞 (上巻) (新潮文庫)
城塞 (中巻) (新潮文庫)
城塞 (下巻) (新潮文庫)

こちらも司馬遼太郎の歴史小説です。
毛利勝永の勇猛ぶりなど詳細に描かれています。

大坂城への入場経緯なども詳細に描かれていて
なかなか入り込める小説です。


いつでにせよ、この記事を読んでいただいた方々が
一つでも始めて知った事があれば、嬉しいです。

それでは、長々とお付き合いを頂き、ありがとうございました~。