突然ですが、”関が原の戦い”と聞いて何を連想しますか?

・徳川家康
・石田光成
・小早川秀秋

あたりの名前が真っ先に浮かんでくるのでは?と思います。

ご存知の通り、関が原の戦いは1600年9月に
今の岐阜県・関が原で行われた戦国時代最大の合戦です。

石田光成をはじめとする西軍と
徳川家康をはじめとする東軍の
合わせて10万を超える兵力が激突しました。

この戦いに勝利した徳川家康が後に江戸幕府を開き、
天下を手中にしたことから、
天下分け目の戦いとも言われていますね。

少しでも歴史に興味がある人には常識かもしれないですが、
小学校の歴史で習っただけなんて方には
意外と知らない事が結構あります。

今回はそんな観点から関が原の戦いに関して書いてみようと思います。

では行ってみましょう。
意外と知らない関が原の戦いの巻



西軍の総大将は石田光成ではない?


実は西軍の総大将は石田光成ではありません。

石田光成VS徳川家康の構図なのは確かです。
また、東軍の総大将が徳川家康なのも確かです。

でも、西軍に関しては

・総大将:毛利輝元
・副将:宇喜多秀家

なのです。

石田光成は何かにつけて対立者が多く、
彼が総大将では武将がまともに働かない恐れがあるので、
五大老の二人に頼み込んで、
このような形を取らざるを得なかったんですねー。

名将・大谷吉継の進言だったと言われています。

しかし、当時の光成の嫌われようって、
どんなだったんだろう?想像がつかん・・・。笑



小早川秀秋の裏切りは想定内?


小早川秀秋の裏切りにより、
西軍が負けたと解説されている事が多いですが、
彼の裏切りは想定内だったようです。

大谷吉継は小早川秀秋の裏切りに備えて、
それ専用の部隊を配置していました。

なので、小早川秀秋が裏切って、攻めてきた後も、
わずか数千の軍勢で約15000の軍勢を
押し戻したと言われています。

むしろ、誤算だったのは、
小早川秀秋の裏切りへの応戦中に
応戦用に配置していた部隊までもが寝返ってしまった事です。

さすがの大谷吉継もこれには耐え切れず、
敗走して、山中で自害する事になります。

小早川秀秋以外にも裏切り者は居た!


小早川秀秋の裏切り(これに呼応した寝返り)は、
もちろん西軍敗走の一要因ですが、
それ以外にも、実は裏切り者はいました。

西軍総大将・毛利輝元の重臣である吉川広家です。

彼は石田光成に担ぎ出された
主君・毛利輝元の戦後の処遇を憂い、
独自に徳川家康に接近します

西軍側として参戦するが、戦行為は一切しない!
その代わり、戦後の毛利家に寛大な処置を!


と願い出ます。

結果として、吉川広家が陣を動かない事で
他の毛利軍も身動きが取れないことになり、
20000以上の軍勢が不戦のまま、戦が終わります。

小早川秀秋も家系上は毛利家の重臣ですので、
毛利家が関が原の戦いに与えた影響は
かなり大きかったって事ですね。

総大将・毛利輝元に至っては、戦場に赴いてすらいないし。



あとがき


3つ上げてみましたが、いかがでしたでしょうか?

見る方にとってはどれも常識かもしれないですが、
一人でも、初耳だった!と言う方がいれば、
記事を書いた甲斐があります。

尚、関が原の戦いについて書かれたオススメの書籍があります。

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)
関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)
関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

司馬遼太郎の関が原3部作です。
関が原の戦いにのみについて書かれた数少ない小説です。

先に記載した、大谷吉継の最期のシーンも壮絶、
かつ、感動的に描かれています。

私も自宅の本棚にボロボロの状態で保管しています。
何度も読み倒したのでね。

お時間と興味があれば是非とも読まれてください。

それでは、本日はこの辺りで失礼します。